恵方巻き

 まさかここまで全国に広がるとは思いもしなかった。恵方巻きのことである。

 

 26、27年前のことだと思う。当時私は全国チェーンのスーパーに勤めていて、仙台のお店で働いていた。週に一度の全体朝礼の時に、お店の副店長が前に立ち、

「関西の方では節分の日に、ある方角を向いて恵方巻きと言われる太巻きを食べる習慣があります。われわれのお店も、積極的に恵方巻きの販売拡大を図り、売上アップを図りましょう」等と店の従業員に対して話をしていた。

 私は神妙な顔付きで話を聞いているふりをしながら、心の中では、“恵方巻きなんて、文化の欠片もない東北の地で、流行るわけがないだろう”と小ばかにしていた。

 

 ところがその後、大手スーパーやコンビニ等の流通各社が、競いあうように恵方巻きの拡販を行ったことにより、瞬く間に節分の恵方巻きは全国を席巻してしまった。今では、お正月にお餅を食べない家庭でも、節分には恵方巻きを食べるという、驚くべき文化の逆転現象が生じている。

 

 実は2月というのは、小売業にとって売り上げが落ち込む月であり、2月の売上対策として白羽の矢が立ったのが恵方巻きであった。流通各社は「売上アップ」のため、日本のごく一部の地域の文化であった恵方巻きを利用して、新たな市場を創り出してしまったのである。

 

 以前、イスラエルの諜報機関モサドの元諜報員が情報操作とは何かについて次のように語っていた。

“情報操作とは、うそをでっちあげたり、全く事実とは異なる噂を流すことではない。ほんの小さな出来事や取るに足りない事実を、拡大したり、歪曲したりして、人々の考えをある方向に導くことだ”

 

 日本における恵方巻きの急速な普及は、流通各社による一種の情報操作とも言える。関西の一部の地域で実際に行われていたささやかな風習を、誇大広告等により「福を呼ぶおこない」として全国民を扇動し、恵方巻きを食べさせる(買わせる)ことに成功したのだ。たぶん訪日外国人が恵方巻きにかぶりつく日本人を見たら、きっと日本古来の伝統的な風習と思うことであろう。

 

 当初からの経緯を知っているので、今でもこの時期の恵方巻きの喧騒を冷ややかに見ているのだが、時代はこのようにして変わっていくのであろう。

 新しいものに背を向けていても何も始まらないので、今年は売れ残りの恵方巻きでも買って食べ、縁起を担ごうと思っている。