托鉢

 昼頃、郡山市街地の街角に立ち、托鉢をしている一人の僧侶がいる。このお坊さん、歳は60位であるが、坊主のくせに落ち着きがない。視線は一定せず、上を見たり下を見たり、下半身は直立不動には程遠く、足踏みをしたりして、安定性に欠けること甚だしい。私は会社近くのコンビニでレジに並んでいるときに、このお坊さんに割り込まれたことがある。あの時はあまりの堂々とした割り込み様に、唖然として声が出なかった。

 

 このお坊さんとは全く関係ないとは思うが、実は、私の会社に半年に1回程度、どこかのお寺の僧侶が托鉢にやってくる。鐘を鳴らしながらやってくるのだが、私の事務所の前に立ち止まってお経をあげ始める。信心深い人はありがたく思ってお布施を渡すのであろうが、私にとっては正直ありがた迷惑である。迷惑と感じることに、どうしてお金を差し出すことができようか。むこうもお布施を頂くまではとお経を唱え続けるが、私にはお経が「お布施、お金、お布施、お金、お布施、お金・・・」と請求しているように聞こえて仕方がない。あきらめて帰ってくれると、正直ホッとする。

 

 先週、ポスターを貼らせてくれと、派手なおばちゃんが事務所の中にズカズカ入ってきたので、何のポスター?と聞くと、高句麗なんとかコンサート、とかいうポスターとチラシを出して、あなたのような方にぜひ来ていただきたいという。料金は7千円と記載されていたが、こんな胡散臭い催しに7千円も払って行く人がいるのであろうか。派手なおばちゃんはスピリチュアルな話をし始めるたので、「まるで新興宗教みたいですね」と返してやったら、そんなことありませんと言ってさっさと帰って行った。

 

 人が何かを信じたり、信仰を持つことは別に悪いことだとは全く思わないが、私のことはほっといてほしい。