ダイエー③

 結局私はダイエーの仙台市内の店舗で4年半勤務し、平成4年10月、仙台事務所へと異動になった。異動先の部署はFC(フランチャイズ)運営部で、その後退職するまで五反田事務所、東京本部、そして再び仙台事務所と渡り歩いたが、全てFC運営部内での異動であった。

 

 ダイエーのフランチャイズ(FC)というとローソンを思い出すかもしれないが、ローソンはグループ企業ではあったが、別会社であり、ダイエーのFC運営部とは全く関係がなかった。ダイエーの看板を掲げながら、実は地方の「○○交通」や「○○商店」等が経営しているダイエーのFC店舗というのが存在し、全国各地に50~60店舗程が散らばっていた。FC運営部は、FC店舗の運営面での管理部署であったが、ダイエーの中ではちょっと変わった特殊な部署で、社内での位置づけは必ずしも高くなかった。ダイエーにおいてはあくまでも直営店舗が主流であったからだ(当然であるが)。

 

 FC運営部ではゼネラリスト的に様々なことを経験させてもらったが、店舗改装の仕事も担当した。FC店舗の改装を数多く手がけたが、そこから得た教訓は、皮肉なことであるが、改装はあまり効果がないということである。業績低迷の理由を店舗改装の遅れ等と表明する企業があるが、こういう企業は要注意である。セブンイレブンやユニクロ、ニトリ等業績が好調な企業はいずれも商品で真っ向勝負しており、店舗改装の有無や遅れ等を業績悪化の理由に挙げるようなことはない。ダイエーは業績低迷の理由の一つとして、ほとんど毎年のように、店舗改装の遅れと繰り返していたが、これは全く言い訳にすぎない。

 

 ダイエー(中内功社長)は横文字も好きであった。いつの頃からか忘れたが、中内功社長は、アメリカ流に中内CEO(シーイーオー 、chief executive officerの略)という名称になり、長男の中内潤副社長はCOO(シーオーオー、chief operating officerの略 )と呼ばれるようになった。また、東北事業本部が東北カンパニーになる等、カンパニー制も導入されたが、ワンマン経営に変わりはなく、アメリカ流を表層的に模倣しただけであり、結局、カンパニー制は数年も経たずに廃止された。

 

 ダイエーにおいては中内功CEOと長男の中内潤COOの言うことは絶対的であった。特に平成以降、後継者である中内潤COOは年々発言力を増していった。ダイエーはバブル崩壊後、低価格路線をひた走り、中内潤COOの陣頭指揮の下、ローコスト施策(コストを下げて商品の価格を安くするための様々な対策)に取り組み、ローコスト仕様の店舗であるハイパーマートを次々と開店させた。ローコスト施策は思想としては正しかったが、実際にダイエーがやっていたローコスト施策の多くは、消費者に負担を強いるものであったり、上辺だけの中身を伴わないローコストが多かった。

 例えば、ハイパーマートの品揃えは売れ筋だけにアイテムを絞った単品大量販売であったが、消費者としては、様々な商品の中から選択するという買い物自体の楽しさを感じることができず、客の支持を得られなかった。

 また、当時ローコスト什器と称して、商品を陳列する什器を開発し導入を図っていたが、結局導入の目的である陳列作業の省力化ができず、却って陳列の手間ひまがかかったりして、見せかけだけのローコストになってしまったものが少なくなかった。    

 ハイパーマートは当初、消費者の支持を集めたが、数年後には売上が下降して客は離れ、結局その看板を下ろすことになる。

 私はローコスト施策の考え方自体は決して間違えではなかったと思う。だだローコスト施策を進めていくうちに、ローコスト施策自体が目的となり、何のためのローコストなのか、そして誰のためのローコストなのかを見失っていった。

 あの時、何があろうと本当の意味でのローコストを完徹するような強い意志がダイエーにあったなら、その後のダイエーも少し変わっていたのではないかと思われる。

 

 東京本部に勤務していたころ、上司である課長から、中内功社長宛に経営状況が懸念されていたあるFC店舗に関する報告書を書くように指示を受けたことがある。A4の紙1枚に簡潔にまとめるようにとの指示で、原稿を書いて課長に提出し、朱書きで添削され真っ赤になって返ってきた。それを直して今度は部長に提出し、また朱書きで添削され返ってきた。それを指示通りに修正し、今度は副本部長に提出して、また真っ赤になって戻ってきた。それをまた修正して今度は本部長に提出した。今度は修正はなく、結局、そのまま社長に文書は提出された。

 報告書の中身はそれまでの売上高等の推移と、これからの営業対策についてであり、こちらの責任が問われるような不都合な情報は一切報告しない。いったい、毎日どれだけのパワーが社長宛の文書の作成のために費やされていたのだろうか。確かにサラリーマンにとって報告という作業は大事なことである。しかし、上っ面だけの報告書にたいした意味はない。全てはお客様のためといいながら、結局見ているのは上ばかりである。

 

 当時、ダイエーは売上高では日本一であったが、利益率及び利益高ではイトーヨーカドーに圧倒されていた。売上高の伸び率もヨーカドーの方が上回っており、売上高においてもヨーカドーは一歩一歩ダイエーに近づきつつあり、ダイエーにはあせりがあった。

 平成6年、ダイエーは忠実屋など3社と合併し、売上高においてイトーヨーカドーを突き放すが、忠実屋の店舗は不採算店が多く、数年後には旧忠実屋店舗の多くが閉鎖された。

 売上高と利益率。量と質と言った方がいいだろうか。結局、量に走ったダイエーは落ちぶれ、質を重視したヨーカドー(セブンアンドアイ)は生き残った。

 

 ダイエーは借金が多過ぎた。ダイエーの出店モデルは高度経済成長期に確立されたものであり、基本的に地価の上昇とそれに伴う自己所有の不動産の担保価値の上昇を背景に、借金を重ねて、店舗網を急速に拡大しいくというモデルであった。経済が右肩上がりの時代はそれでよかったのだが、バブル崩壊により、この構図はもろくも崩れ去った。

 これに対してイトーヨーカドーやセブンイレブンはほとんど無借金経営であった。流通業に限らず、バブル崩壊により、財務体質の良い企業は生き残ったが、財務体質の脆弱な企業はことごとくつまずいた。

 

 以上まとまりのないことを書き連ねてきたが、結局、ダイエーは社会の変化に対応して自らを変革することができなかった、ということである。

 

 私は入社して11年でダイエーを辞めた。辞めた理由は、会社の将来性、家族や両親のこと、自分の年齢及び将来の目標等を考慮してのことであり、一言で表現することは難しい。

 

 これまで、ダイエーに対して批判的にいろいろ書いてきたが、ダイエーに対して個人的な恨み等は一切ない。私にとってダイエーは実社会における学び舎であり、多くの事を学ばせてもらった。多くのすばらしい上司にも恵まれ、これらの上司とは今なお、お付き合いさせて頂いている。

  ダイエーの名前が消えてなくなることは本当に寂しいが、私にできることはダイエーのことを時たま想いだし忘れないことである。それが消えゆくダイエーに対してできる唯一のことである。